2024.04.04
愛憎という言葉は。
本当によく言ったものだと思う。
相反するようでいて。
実は表裏一体なのだろう。
関係性が深い程に。
それを思い知らされる。
母は、話が通じない事が多い。
前にも別の記事で散々書いたぐらいだ。
あくまで私の視点から言えば。
母とは、話の論点が合わない。
具体的には、私は一つの話をきちんとしたい。
だが、母は一つの話の途中で別の話題に飛んでしまう。
本人曰く、あくまでも「関連性がある」らしい。
しかし、話をしているこちらとしては、一つの話が終わらない内に別の話題に行ってしまうと、収拾が付かなくなる。
確かに本人的には、それら全体が一つの会話というか、雑談であり、一まとまりなのだろう。
その事を私も一生懸命理解し、受け止めようともした。
話のペースを合わせ、飛んだ話題に付いていく事もある。
けれど、やはり温度差というのか、ストレスが溜まる。
「そうじゃなくて!」と、怒りが出る事も多々ある。
それは母だって同じだろう。「こいつと話しても埒が明かない」というような感覚は、多分あると思う。
最早ネタではないかと思う例として、母が言った愚痴話に、私なりに真面目に返答したら、「そうじゃない」。
では何を求めているのか尋ねれば「違うんだよなぁ」。
…まぁ、愚痴話なんて、大抵ただ話したい、聞いてほしいだけだというのは分かるが。
締め括りが「あんたに話しても仕方ない」。…なら最初から話さないで頂きたいものだ。
同じ愚痴話を何度も聞かされていれば、流石に嫌気がさす。
具体的に解決出来る事があるなら、そっちを考えてほしいと思う。
もちろん、解決出来ない事も大きい。なればこそ、せめて気持ちの持ちようぐらい、自分で見付けてほしいものだ…。
果ては決まり文句のように「あんたは父ちゃんと一緒だから」と、父親を蔑みの対象として出してくる。
私からすれば、どっちもどっちだ。ただ、母の方がお世話になった事が多いし、生んでもらった人という部分がある故に、最終的には大事にしようと思うだけで。
父に対しては、私もほとんど良い印象はない。
不自由なく生活させてくれた感謝はあれど。
父親、母親、双方から傷付く事はされてきた。
それでも、最初は親の為に頑張った。
育ててもらった恩返し、迷惑を掛けた罪滅ぼしに。
だが、それももう、自分の中では十分してきたつもりだ。
今になって、ようやくそう思う部分もある。
しかし、悲しいかな。母は生まれ育った地を離れ、愚痴を言える相手が居ない。
父はそもそも元凶だし、話を聞くタイプでもない。
だから、こっちに来たばかりの頃は、ケンカが絶えなかった。
今でもケンカはあるが、怒鳴り合いになる事もあった。
当初は辛さが募り、私も大分追い込まれていた。
けれど、私は少しでも母の気持ちを晴らしてあげたかった。
母の愚痴を聞き、慣れない地で、色々な所に連れていったりした。
…それなのに。私への文句と愚痴は、今でも止む事はない。
ずっとずっと、そこに囚われている。
可哀想な人だと思う。だが、だからといって、私に母の人生の全面フォローなど出来ない。
「親と子は対等じゃない」という精神の下、子供の私に何を言ってもいいと思っている。
あまつさえ、親の為に色々するのは当たり前だとすら思っている。
…私は、両親が悲しい。
結婚相手を失敗すると、こんな風になるのか、と思ってしまう。
自分の両親をそんな風に言う事も悲しいが。
それなのに。最後の最後で、私は両親を憎めない。
何故かは分からないが、まさにこれこそが「愛憎」なのだろう。
私は私の人生の中で、私自身の答えを見付けなくてはならない。
けれど。両親を見送るまでは。自分の事に本気で向き合えない気がしてしまっている。
言い訳に過ぎないのだろうか。向き合う事が大変だから?
私が答えを出すしかないというのに。
…人生は、向き合う事が多すぎる。避けて通れない事もある。
もう少し、柔らかく捉えられるようになりたい。